


瀬崎は宿・原・新田の三地区からなっており、宿と原では浅間神社(当社)、新田では氷川社を祀り、別に村全体の天神信徒が天神社を祀ってきた。この3社については『風土記稿』瀬崎村の項に「浅間社 村の産神とす善福寺持、下並同じ、末社、浅間稲荷疱瘡神合社、天 神社、氷川社」と記されている通りで、ほかに3地区別々に稲荷社を祀っていた。そのうち最も規模の大きかった当社が村社とされ、他の神社は無格社となり、明治40年に当社に合祀された。
この天神社の跡地は、当社とを1枚隔てて隣接するという近い位置にあったために当社の社地に編入されたが、この跡地を「奥の院」として、そこに富士塚を築造しようという話が大正初期に関係者の間から持ち上がった。瀬崎では浅間神社を祀っていたために地元の富士講中は他所の講中のように富士塚を築造することがなかったので、この話は講中にとって良い機会であったし、天神社の崇敬者にとっても永年信仰してきた神社の跡地が畑や山林になるよりも喜ばしい話であった。そこで近隣の家から土を掘って盛土をし、そこに富士山から運んで来た溶岩を張り付け、大正5年8月30日に富士塚が完成した。
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| 鳥居 | 手水舎 |
|---|---|
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| 手水鉢 | 神輿庫 |
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| 狛犬 | |
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| 浅間庭園 | |
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| 稲荷神社 | 力石 |
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2013/08