


当社は、内陣に祀る香取大明神像からもわかるように、元来は香取社と称していた。『風土記稿』川藤村の項に載せている香取社3社の うち、「1は小名保村の鎮守なり」と記されているのがそれである。
明治2年銘の棟札には、既に当社の社名は「武輝神社」となってい る。この社名は、幕末に神主鈴木重栄が京都に赴いた際、神祇官から受けたものであるという。「武輝」の名は、武神である当社祭神の経津主(ふつぬし)命にちなんだものか、あるいは武蔵国にちなんだものであろう。
『風土記稿』川藤村の項を見ると、小名として本川藤・保村(『明細帳』には「保原」とある)・榎戸・前新田・後新田・屋形前の六つがあり、字ごとに鎮守を祀っていたことがわかる。これらの鎮守は、本川藤の女体社、 保村の香取社(当社)、榎戸の香取社、前新田の稲荷社、後新田の稲荷社、屋形前の天神稲荷社の6社であった。
しかし、明治初年の社格制定により保村の香取社が村社に、他の各社が無格社となり、更に1村1社を目途とした合祀政策により、明治45年、村社の香取社に上の6社を含む川藤内の11社が集められた。これを機に保村の鎮守であった当社が川藤全域の鎮守として崇敬されるようになり、現在に至っている。
スポンサード リンク
| 鳥居 | 手水舎 |
|---|---|
![]() | ![]() |
| 手水鉢 | 本殿 |
![]() | |
| 祖霊社 | 稲荷社と社 |
![]() | ![]() |
| 石祠 猿田彦、稲荷、八大龍王・水神宮、八大龍王・水神宮、高瀧加美大神・闇瀧加美大神 | |
道楽の部屋について
2008 © umacamelife.net
2010/08