


『風土記稿』大里村の項に「稲荷社 鎮守なり ○八幡社 2社共に秀蔵院の持」とあるように、当社はこの大里の村の鎮守として祀られてきた神社であり、その故を以て明治6年に村社となった。氏子の間で農業の神として信仰されてきたことから、村の開発に伴い、村の繁栄と五穀豊穣を願って祀ったのが当社の起源と推測される。
『風土記稿』に見える八幡社は、その境内であった神明社と共に、明治41年に当社の境内に移され、末社として祀られるようになった。このほか、古くは境内に天神社があったが、いつのころか本社に合祀したと伝えられている。
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| 鳥居 | 本殿裏 |
|---|---|
| 八幡神社 | 石祠 |
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2009/03