


大房の鎮守として祀られてきた当社は、この逆コの字の入口付近に鎮座しており、境内の裏手(北側)は元荒川の川岸である。ちなみに、この辺りの元荒川河畔は桃の名所として知られ、二代目安藤広重の富士三十六景にも「越谷の桃」として描かれていることで有名である。
当社の創建について、「明細帳」には、「寛保3亥年(1743)12月中創立」との記録がある。 これについては、氏子も、「当社は京都伏見稲荷神社を分祀したもので、昔、寛保3年12月と書いた棟札があった」と伝えており、まず信頼してよいと思われる。
『風土記稿』大房村の項には、村内の神社について、「稲荷社」と記されている。ここに見える八幡社は字海道内、弁天社は字下川戸にあったが、明治40年、字海道内の水神社と共に、当社に移され、境内神社となった。ただし、八幡社の社は、老朽化して本社に統合したものか、現在見当たらない。また、摩利支天社も、これと同時期に当社に移されたらしく、当社の境内にはその社もある。
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| 鳥居 | 手水鉢 |
|---|---|
| 本殿 | 左から板碑、猿田彦大神、庚申塔、猿田彦大神、樗宮 |
| 麻利支天 | 石祠 左から水神宮、山王宮、弁財天 |
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2009/04