


当社の創建については明らかでない。しかし、当社には富士山と大日如来の形を打ち出した懸仏が伝わっておりその背面に嵌められた板には「敬白 奉納、冨士山内院御正躰 南無浅間大菩薩 上野介満範 別当 本云応永32年(1425)6月1日叡蓮 于時文明8年(1476)丙6月1日、満範孫子、別当中納言阿闍梨良清」名前と、此の時期、「富士山を八葉蓮華に見立てた山岳宗教の確立』を示す墨筆があり、室町期には既に祀られていたことが判る。
慶長年間(1596-1615)に、後に日光街道となる奥州道が整備されるに及び、越ヶ谷宿が設けられた。当初は本町と新町に区切られていたが、当地の土豪会田出羽が徳川家康から下賜された両町にまたがる 区画を新たに中町(仲町とも書く)として起こし、自らその名主・問屋となった。その過程で、当社は中町の鎮守となったと思われる。
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| 鳥居 | 手水舎 |
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| 手水鉢 | 神額 |
| 笠間稲荷社 | 三峰社 |
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