
呑龍上人は弘治2年(1556)一ノ割村生れ、14歳のとき平方林西寺に入寺して僧となり、のち増上寺の源誉存応(普光観智国師)のもとで修行に励んだ。 天正12年(1584)より林西寺の住職を勤めたが、慶長5年(1600)には多摩郡滝山の大善寺に移った。同18年、徳川家康がその祖新田義重の菩提をともらうため建立した上州太田大光院の開山僧に選任されて大光院に移った。
元和2年(1616)法度の鶴をとらえた若者をかくまい、小諸に逐電したが同7年許されて大光院に戻り、同9年8月の示寂。生来情深く貧家の幼児を数多く養育したことから「子育呑龍」と称された。
林西寺墓所にある呑龍墓石は総高2.2メートル、その形や大きさとも大光院の呑龍墓石と全く同じで、あるいは当所に分骨埋葬されたものとみられる。
越谷市平方249YAHOO地図より
スポンサード リンク
![]() | ![]() |
| 説明 | |
![]() | ![]() |
道楽の部屋について
2008 © umacamelife.net
2011/10