
この石碑は、天保9年(1838)1月、瓦曽根観音堂敷地に稲垣宗輔らが建立した窮民救済の碑である。
稲垣宗輔は、浅草福富町の豪商稲垣氏・池田屋市兵衛方に婿養子に入った、瓦曽根村名主中村彦左衛門重梁の次男である。
天保5年から7年(1834〜36)にかけては、全国的な大冷害により関東地方なども大凶作となり飢餓に瀕した人々が数多く、各地で穀物商などを襲って食糧を奪い取る打ちこわし騒動が頻発していた。
この碑銘を要約すると、中村彦左衛門重梁は代官久保田十左衛門支配のとき、凶年手当用として御貸付所(幕府の銀行)に預金していたが、天明年間の凶作年には、御貸付金の元利金を下ろして窮民に与え、飢餓より救った。
重梁は、その子らにも凶年手当金を備えておくよう遺言して没したが、稲垣家に養子に入った宗輔はこれを受け、文政9年(1826)浅草猿屋町会所御貸付所(当時勘定奉行遠山景元)に凶 年手当金として百両を預金し、天保7年(1836)の大凶作にはそこから金92両を下ろし、瓦曽根村の窮民92名宛に金1両づつ施金してこれを救った、との旨が記されている。
また、銘文と歌は、宗輔とは弥従兄弟にあたる恩間村の漢学者兼国学者渡辺荒陽(瓺玉斎)によるものである。
越谷市瓦曽根1-5-43YAHOO地図より
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2009/05