越ヶ谷御殿跡

昭和47年10月25日指定:記念物(旧跡)

天下に君臨した徳川家康は、慶長7年(1602)奥州道を公道に指定し、越ヶ谷宿を取立てるなど、道中の整備を進めさせました。そして慶長9年(1604)には増林にあった御茶屋御殿を越ヶ谷郷の土豪会田出羽資久の敷地内に移し、壮大な御殿を建造しました。これを「越ヶ谷御殿」と称しました。
家康は、しばしばこの越ヶ谷御殿に宿泊し、民情視察を兼ねた鷹狩りを重ねていました。ことに慶長18年(1613)には3度も訪れ、1日に鶴を19羽も捕捉したとあります。また、二代将軍秀忠も、同じく越ヶ谷御殿を訪れ、1ヶ月にわたり宿泊し鷹狩りに興じていました。
しかし明暦3年(1657)1月の江戸大火で江戸城が全焼したため、急遽越ヶ谷御殿を解体し江戸に運び、江戸城を再建しました。
越ヶ谷住民は御殿が江戸に移されてからも、将軍の別荘があった所として、この地を「御殿」と称し今に至っています。その面積はおよそ六町歩(約6ヘクタール)です。
現在では御殿の面影を偲ばせるものは残っておりませんが、「御殿町」という地名にその名を残し越谷の人々に語り継がれています。

場 所

御殿町3YAHOO地図より

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